中国ドラマ

中国王朝 よみがえる伝説「悪女たちの真実 始皇帝の母 趙姫」

戦国時代の地図

2017年3月に放送されたという”中国王朝 よみがえる伝説「悪女たちの真実 始皇帝の母 趙姫」”が興味深かったのでメモ。

 

紫禁城

番組のスタートは紫禁城から。広場には何千人という官僚たちが並んで皇帝の言葉を賜ったとか。

政治の表舞台は男性たちで、女性たちの立ち入りは禁止。玉座へ近づくことすら許されなかった。

女性たちがいたのは、”内右門(ないうもん)”の先にある後宮。小さな建物が集まっていて、周囲を壁に閉ざされた空間で暮らしていた。

(わ〜!ドラマ『瓔珞』そっくり!!って、いや、むしろこちらのほうが本物でした)

きさき(番組では、ひらがなで表記されていたので、そのまま使います)であっても政治に口出しすることは許されず、夫である皇帝の声がかかることだけを待ち続けていたとか。

”男子居外 女子居内” 礼記 (男子に外は任せ女子は内にいるべし)という儒教の教えが中国では深く根付いている。

それゆえ女性たちの名前は歴史に埋もれることが多いけれど、歴史に名を刻み込んだ女性たちもいる。共通点は、なぜか皆”悪女”と呼ばれること。

 

なぜ悪女と呼ばれたのか?その素顔は?

今から2200年前の紀元前3世紀、中国を初めて統一した秦の始皇帝。

その人生に大きな影を落としたとされる女性、それが始皇帝の母・趙姫。

始皇帝の若き日を描く人気漫画『キングダム』にも趙姫が登場。

『キングダム』はオリジナルの物語が展開するが、趙姫のエピソードはある歴史書をよりどころにしている。それは中国王朝最古の正史『史記』。

夫以外の男性との密通、かつての中国では重罪にあたる行為を繰り返し、挙句の果てには嫪毐(ろうあい)という名の愛人と結託。息子の始皇帝に対して反乱を起こす。

始皇帝の天下統一を愛人のために阻もうとした趙姫。”とめどなく淫ら”と非難されてきた。

しかし近年、相次ぐ考古学の発見により趙姫の”悪事”について新たな解釈が必要となってきている。

 

始皇帝陵

陝西(せんせい)省西安の郊外にある始皇帝陵。その一角に、趙姫たちが生きた時代をありありと感じられる場所がある。

それが兵馬俑。

”俑”とは土を焼き固めた人形のこと。等身大の兵士や馬の俑、合わせて約8000体に上る。

発見されたのは1974年、井戸を掘っていた農民が偶然見つけた。

一人ひとり顔が違う兵士たちは、始皇帝の死後も彼を守る軍隊として作られたものだとか。

趙姫の生きた時代と人生

中国大陸に群雄が割拠した戦国時代。日本は弥生時代。秦の国の第31代王となったのが政(せい)、のちの始皇帝。

政は1代で他国を全て征服し天下を統一。長い戦乱の時代に終止符を打った。

 

漫画『キングダム』は若き始皇帝が天下統一するまでの道のりを描く物語。そのなかで趙姫は母にはふさわしくない態度で始皇帝に接し続ける。

趙姫を描くにあたってよりどころにしたのが歴史家・司馬遷の『史記』。司馬遷は趙姫の男性遍歴を赤裸々に記している。

秦の王子・子楚(しそ)のきさきとなり、一人息子の政(せい)、のちの始皇帝を授かった趙姫。しかし母の身でありながら、夫と出会う前の恋人・呂不韋という男と密通を繰り返す。

それに飽き足らず別の愛人・嫪毐(ろうあい)に溺れ隠し子まで出産。ついには、その隠し子を王位につけようと息子・始皇帝への反乱を起こす。

趙姫は”邯鄲の諸姫(しょき)”と『史記』には記されているそうです。邯鄲は秦の北東にあった趙という国の都。諸姫は踊り子のこと。

なぜ、他国の踊り子が秦の王妃となったのか?

その理由を物語る古代の劇が西安に伝わっている。西安は、秦の本拠地のひとつだった。

 

中国で最も古い劇のひとつとされる”秦腔”。”秦腔”は「秦のなまり」という意味。この劇には、趙姫の出身地である趙の文化が大きく影響しているという。

”秦腔”は、もともと肉声で歌うだけの素朴なものだったが趙など「中原(ちゅうげん)」の国から衣装や楽器を取り入れ今のように華やかになった。

戦国時代の地図

趙姫のいた邯鄲など黄河中流域は古くから中原と呼ばれてきた。中原は殷や周などの古代王朝が栄えた中国文明の中心地。

秦は西の端に位置する国。古くは西戎(せいじゅう)、西の野蛮な人々と呼ばれ文化の後れた国とされていた。

(ドラマ『コウラン伝』でも、そう言われてました、そういえば!『コウラン伝』まだ6話までしか見ていませんが、異人がとても洗練された人物に見えるので、まさかそんなに文化的に差があるとは)

秦腔の由来を伝える歴史書にも、伴奏に使う楽器はもともと秦にはなかったと記されている。秦の人々にとって、趙の国の踊り子は憧れの対象だった。

『史記』にも、”趙の踊り子は化粧も特別で琴を巧みに爪弾く。その色香には誰もが心を惹かれる”。なかでも趙姫は絶好善舞(ぜっこうぜんぶ)、踊りが得意で誰からも好かれる特別な才能を持っていたと言われている。

趙姫が秦の王子に請われて、いわば”国際結婚”をしたのは紀元前260年。しかし、この年に趙姫の運命を大きく変える出来事が起こる。

転機:長平の戦い

紀元前260年、夫の国・秦が趙へ攻め込んだ”長平(ちょうへい)の戦い”。

(第6話で、蛟王子が言っていた”長平”のことですね!!)

1995年、かつて長平の戦いがあった場所で開墾作業をしていた村人が驚くべきものを見つけた。

おびただしい人骨。折り重なる遺体をよく見ると首がねじ曲がったものばかり。これは『史記』に記された戦いの残酷な結末が本当だったことを示すものだった。

”秦は趙の軍を包囲し、趙の軍は降伏した。しかし40万人以上の兵は、皆生き埋めにされた”

降伏したにもかかわらず生き埋めにするという非道な行為に、趙の人々は”長平の禍(わざわい)”と呼び秦への恨みを募らせた。

戦いの4ヶ月後、趙姫は邯鄲で子楚の子を産む。紀元前259年1月。

なぜ、秦はそのような残虐なことをしたのか?

秦が他国に先駆け、天下統一への第一歩を踏み出した重要な戦争。いつ秦に滅ぼされるか分からないという恐怖心を植え付けようとしたのではないか、と。

一気に高まる秦と趙の緊張関係。趙にいた子楚は一人で秦へと脱出し、趙に取り残された趙姫と息子。

その後も秦は趙を攻め続けたため、趙姫たちは秦への恨みを一身に受けることになった。恨みを募らせる趙の人々の間で暮らすこと、実に5年以上。その間、秦の王が相次いで死去する。

紀元前251年 第28代 昭王 死去
紀元前250年 第29代 孝文王 死去
紀元前250年 第30代 荘襄王(子楚)即位

 

そして夫の子楚が王に即位。一躍、王妃と王子になった趙姫と始皇帝。2人は意を決し、秦へと脱出。

3年後、夫が死去すると始皇帝が13歳で即位。趙姫は王の母”太后(たいこう)”の地位を手に入れる。

 

悪事のはじまり

”太后”になった直後から悪事が始まったと『史記』には記されている。

”太后 時時ひそかに私通(しつう)す”、”太后 私(わたくし)して通ず”

太后の身分を得て、すぐ密通を始めた趙姫。密通相手が残したものが、兵馬俑とともに発掘されている。

兵士の俑は、本物の武器を持っていた。その一つが”戟(げき)”と呼ばれる青銅の武器。そこに文字が記されている。記されているのは武器を作らせた人物の名前。

相邦(そうほう)の呂不韋が造らせた、と。これこそが、呂不韋が実在の人物であったことを示す貴重な証拠。

相邦(そうほう)とは、国をつかさどる宰相のこと。戦国時代、武器は国にとって最も大切な財産であり王もしくは宰相クラスの人間だけが造ることを許されていた。

呂不韋は、まだ10代だった始皇帝に代わり事実上権力を握っていた。呂不韋は、王を導く存在である”仲父(ちゅうほ)”と呼ばせていたとか。

しかし、趙姫にとって呂不韋は因縁の関係でもあった、と。

戦国時代の各国を股にかけて活動する商人だった呂不韋。趙の都・邯鄲で趙姫と出会い恋仲に。ところが趙姫が秦の王子・子楚に見初められ、子楚に取り入ろうと考えていた呂不韋は趙姫を献上。

やがて子楚が王になると、古くからの関係を利用して秦の宰相の座を手に入れた。

かつて自分を捨てた呂不韋と秦で再会した趙姫。『史記』に、とめどなく淫らと記されるほど密通を繰り返した。王の母と宰相という国を揺るがしかねないスキャンダル。何が趙姫をそこまで突き動かしたのか?

夏太后の陵墓

2006年、趙姫と同じ太后という立場にあった女性の陵墓が西安市内で発見された。墓の主は、趙姫の義理の母、始皇帝の祖母にあたる夏(か)太后。

この陵墓の発見が趙姫の密通の秘密に迫る鍵となった。

現在は発掘を終え埋め戻されている神禾源(しんむげん)遺跡。掘っても掘っても遺跡が出てくるため、ビルの建設をストップしたほどだとか。遺跡の総面積は17万平方メートル、墓は秦の時代では王族だけに許された十字の形をしていた。

始皇帝の祖母の墓とされた根拠の一つは墓室の数。通常は夫婦で埋葬されるため2つあるはずが1つしかなかった。これは『史記』の記述に一致するんだとか。

”夏太后は夫とは別に独りで埋葬される事を希望した”

(なんとー!でも、それが許されて良かったですね夏太后)

副葬品の中に、太后専用の日用品を作る部署・私官(しかん)で焼かれた壺も見つかった。これらの事実から、夏太后の陵墓だと推定。

女性単独での埋葬は、他の王朝なら許されないことなんだそうです。発掘担当者の方も、『史記』には書いてあるけれど本当だろうかと疑問に思っていたんだとか。でも、実際に出てきた。

秦では王が幼い時は代々母親が太后として政務に関わってきた。女性が政治に携わるのが当たり前になっていたからこそ、夏太后の希望も受け入れられたのだろう、と。

昭王が若い時、宣太后が自ら政治の全てを行った、とか。太后の印によって軍隊を発した、という記録が残っている。母親たちが内政だけでなく外交や軍事にまで携わっていた秦。

幼い王に代わり母親が政治権力を握ることは、後の王朝でもまれにあるが最後の王朝・清の西太后などごく僅かな例外だけ。

しかし、趙姫の生きた秦には女性たちが権力を握ることを許容する環境があった。

夏太后の遺跡からは、太后の権威の高さの証しとなるものもみつかった。それは乗っていた馬車。

遺跡から見つかった6頭の馬の骨と馬車。古代から”天子駕六(てんしがろく)”と言って6頭立ての馬車には王しか乗れず、国家儀式のときだけに用いられる権威の象徴。それが夏太后の陵墓から発見されたということは、太后が王と同格の存在として捉えられていたことを示している。

 

秦の太后たちが持っていた強い力は、大きな責任を伴うものでもあった。趙姫が呂不韋に近づいた理由も、そこにあったのではないか、と。

趙姫は息子が幼い以上、母親である自分が政治を行わなくてはいけない。しかし趙姫は秦に来てから日が浅く、政治を学ぶ時間がなかった。夫を亡くした彼女には、政治的にタッグを組める存在が必要だったので呂不韋と結びついたのではないか、と。

発掘された竹簡などから分かった意外な事実

趙姫が重ねた”密通”という行為についても意外な事実が明らかになった。

1980年代以降、中国各地で相次いで発掘された竹や木の板。そこに秦の法や裁判の判決などが記されていた。

そのひとつが1983年に出土した裁判の判例集。そのなかに秦の国で起こった密通事件についての興味深い事例が。

始皇帝の時代にこんな訴えが会った。被疑者は甲という女。甲は夫が病死してその埋葬がまだ済んでいない時、別の男・丙と棺の傍らで肉体関係を持った。これを知った亡き夫の母は地方の役所に訴えでた。判決は有罪。夫の母に対する親不孝の罪とされた。

ところが、そこに上役の裁判官が出張から戻ってきて待ったをかけた。

法に照らせば、夫が生きていれば密通は罪になる。しかし夫が死んでいる場合の規定はない。だから罪にはあたらない。

(まぁ、罪にはあたらないとしても、人としてそこで関係を持つというのは、ねぇ、どうかと個人的には思いますが)

判決は一転、女は罪に問われないこととなった。

この秦の判例に照らすと、趙姫が呂不韋と密通したのは夫・子楚が亡くなった後。趙姫は、たとえ法で裁かれたとしても無罪となったと推測できる。

これが後の時代(清)の法で裁かれたとすると、夫以外の男性と関係と持った場合、夫は妻を斬って良い。たとえ夫が死んだ後でも妻には二千里の流刑が科せられていた。

のちの時代の法律と比べると、秦の法律は女性に対する規定が異なっている。

《夫が妻を殴った場合》

秦の次の王朝・漢の場合 夫が妻を殴っても無罪
秦の場合 夫の耳を切るか指を切る

 

趙姫の生きた秦は、後の時代とは大きく異なり女性の力が強く、その権利も守られた国でした。

(秦は野蛮とか文化的に後れてるとか言うけど、男女の差が少なくて良い国に思えてきました)

近年の発掘によって、趙姫の行動にも理由があり、必ずしも悪女とは断言できないことが分かってきた。なぜ『史記』では趙姫の淫らな行為ばかりがクローズアップされているのか?

『史記』が書かれた時代

古代中国を知るための最も重要な手がかりと考えられている『史記』。

例えば古代の殷王朝。『史記』には記されているものの伝説だと考えられていた。しかし20世紀初頭(1928年 殷墟発掘)の発掘で、その存在が明らかになった。

その一方で、個々の人物像を描くにあたっては作者・司馬遷の主観が混じり一人ひとりの個性が強調されていることも指摘されている。

司馬遷が『史記』を書いたのは紀元前1世紀。そのころ、中国社会では大きな変化が起きていた。

時の王朝・漢の武帝が国家のモラルとして儒教を導入。

”夫者妻之天也(夫は妻の天なり)” 儒教の経典『儀礼』より

夫は妻にとって天にも等しい。儒教は女性の立場を厳しく制限。そして儒教が中国全土に浸透していくのとほぼ同時期に司馬遷は『史記』を書き上げた。

人々は儒教の価値観から趙姫を悪女と見なすようになった。

始皇帝への反乱

趙姫が愛人と共に息子・始皇帝に反旗を翻した”嫪毐(ろうあい)の乱”。

『史記』は事件の始まりを事細かに記している。

趙姫が際限なく淫らだったので、呂不韋は自分に禍が及ぶのを恐れ嫪毐をあてがった。(えっと、Wikipediaになぜ嫪毐が選ばれたのかが書いてあるので、興味のある方はどうぞ)

やがて隠し子が誕生。この隠し子を王位につけるため、息子・始皇帝を排除することを決意。

事件は、天下統一を目指す始皇帝の最大の危機だったとされてきた。

しかし、それに対して新説も。

『史記』には”嫪毒の乱”に関して内容が矛盾する2つの記述がある。

1つは呂不韋列伝。乱の始まりについて嫪毒が蘄年宮(きねんきゅう)という場所で反乱を起こした、と。

しかし、秦始皇本紀には全く異なる経緯が書かれている。

始皇帝の側が嫪毒に謀反の疑いをかけ、都の咸陽で取り締まりの兵を出したとある。

司馬遷が『史記』を書いたのは、始皇帝の時代から100年後。その時代には、乱の原因について2つの説があった。

果たして事実は?

趙姫と嫪毒が起こした反乱、という通説とは異なり始皇帝の側が仕掛けたとする説。その根拠は同じ年に起きていた天文現象にあるという。

肉眼でも見えることが多い彗星。古代中国の人々は、この彗星から「天の意志」を読み取っていた。

始皇帝の時代から半世紀後の馬王堆遺跡から出土した『彗星図』。一つ一つ彗星の形の下に、その彗星が持つ意味が記されている。

戦に敗れる兆しなど内容はほとんど不吉なものであり、そうしたことが起きないよう対処するのが王の重要な務めだった。

彗星の出現を利用して、始皇帝が嫪毒を謀反人に仕立てたのではないか?と。

なぜそこまでして嫪毒を排除しようとしたのか?

それは『史記』に記された嫪毒の領地が重要な意味を持つ。黄河の北側にある山陽、そして太原が嫪毒の領地だった。呂不韋は洛陽。いずれも秦の国外に領地を持っていた。

中国の戦国時代

戦国時代、他の国にある都市を支配し拠点とすることはよく行われていたが、秦の国で国外の拠点を任されていた人物は呂不韋と嫪毒だけだった。

呂不韋に牛耳られていた権力を自分が持ちたいと考えた始皇帝が呂不韋と嫪毒に対して動いたのではないか、と。

始皇帝の思惑通り決着した乱。嫪毒は車裂きの刑に。呂不韋も嫪毒を招き入れたという罪に問われ追放。これを不服とした呂不韋は自ら毒を飲み命を断つ。
(Wikipediaでは、蟄居を命じられる⇒蜀への流刑が追加される⇒自らの末路に悲観して毒を飲む、という流れが書かれていました)

そして趙姫も嫪毒と関わりを持っていたことから幽閉される。

初めて秦の政治の実権を握った始皇帝。ここから他の国々の征服を開始。

韓、趙、魏、楚、燕(えん)、そして斉(せい)。わずか16年で6つの国をすべて滅ぼし、500年以上続いた戦乱の世を1代で終わらせ、自らを最初の皇帝”始皇帝”と名乗る。

その後の趙姫と始皇帝

幽閉されていた趙姫について、『史記』に逸話が記されている。

趙姫の幽閉から1年がたったとき、始皇帝は自ら幽閉先の地・雍(よう)へと出向き母を解放。都の宮殿に迎え入れられた趙姫は都で静かな晩年を過ごし、紀元前228年に世を去る。

趙姫が死んだ年、始皇帝は驚くべき行動を起こす。

将軍の王翦(おうせん)と羌瘣(きょうかい)が趙を征服。始皇帝は邯鄲へ行き、かつて暮らしていた時に母に仇をなした者を皆生き埋めにした。

天下統一の戦いのなかで自ら足を運び処刑の命令を下したのは、この時だけだったとか。

始皇帝が母を葬った場所。1980年代に発掘された秦東陵(とうりょう)。

現在は畑になっているが、谷全体が巨大なお墓だった。生前から自分のお墓を築かせていた始皇帝は、自分のお墓が見える場所に趙姫のお墓を築かせた、と言われている。

天下統一を成し遂げた始皇帝は紀元前210年に50歳で死去。そしてその4年後に秦滅亡。それはなぜなのか?

兵馬俑での発掘

2014年、兵馬俑の発掘現場で衝撃的な発見があった。

手足がバラバラになった200体以上の人骨。発掘担当者を驚かせたのは全て女性の骨だったこと。それは『史記』に記された凄惨な事件を裏付けるものだった。

”先の皇帝の後宮にいた女で、子のいない者は全て命を奪う”

命を下したのは始皇帝のあとを継いだ秦の第二代皇帝・胡亥(こがい)。

2009年、胡亥についての新たな発見があった。それは秦王朝滅亡の決定的な理由を物語るもの。

北京大学所蔵の竹簡『趙正書(ちょうせいしょ)』。書かれたのは漢の初期。胡亥の行動を詳細に記した最古の史料。

皆殺しにするだけでなく、始皇帝が築き上げた法までも否定し捨て去っていた胡亥。国を治める根幹である法を自ら捨てた秦は混乱のなか滅亡。

 

次の王朝は漢。その中興の祖とされる武帝は法に代わって儒教を国家統治の理念として導入。以後、儒教は歴代の王朝に受け継がれ人々の間に深く浸透していった。

儒教の教え

儒教の存在の大きさを示すものが、西安碑林博物館にある。

9世紀、唐王朝の皇帝が作らせた「開成石経(かいせいせっけい)」。高さ2メートルの石版が114枚。

刻まれているのはすべて儒教の教え。

女は幼いときは父兄に従い、嫁いでからは夫に従い、夫が死んだら子に従え。男子に外は任せ、女子は内にいるべし。

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つまり、後世の価値観からすれば趙姫の行動は信じがたいものであったけれど。彼女が行きた時代では、そこまで非難されるものではなく。また彼女が呂不韋を頼ったのは息子の将来を案じてのことでもあった、と。

それでも、嫪毒との間に子供を2人ももうけたというのはねぇ。趙姫からしたら、いずれも可愛い我が子だけれど。いかんせん、始皇帝の地位を揺るがしかねない子を生んでしまうというのは……。

さて、中国ドラマ『コウラン伝』で趙姫(ドラマでは皓鑭)はどんな女性として描かれるのか?どこまでドラマで取り上げるのか、も注目したいと思います。

 

戦国時代の地図
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